山田さんは、ちょうど3杯目のビールを飲み干したところだった。その日は、所属していたシステム開発会社のエンジニアスタッフと営業スタッフが集まり、居酒屋で忘年会をしていた。
エンジニアスタッフの半数は出向しているので、皆で集まってお酒を飲むのは年に2、3回程度。
山田さんは、プログラマーの下積みを経て、35歳という若さで大きなプロジェクトのチームリーダーを務めるSE。何社からもヘッドハンティングされているほどのやり手だ。
営業職であった僕が客先でのプレゼンに苦慮しないよう分かりやすく解説してくれるなど面倒見もよく、みんなから尊敬されていた。
山田さん、今どんな開発してるんですか? プラットフォーム(開発の土台となるOS)は? やっぱりUNIX系も勉強しておいた方がいいですか?
など、山田さんが今どんなプロジェクトに取り組み、活躍しているのかみんな盛り上がっていた。
でも僕は、その場で、みんなに伝えたいことがあった。開発の話題も少し落ち着いたところで、僕は静かに話し始めた。
一瞬、場が静まり返った後、今度は驚きと笑いのまざったざわめきが起こった。「冗談でしょ?」という驚きの声と同時に、コソコソと話す声も聞こえた。
えっ、どうやって? 会社辞めるの?
みんなが聞いてきた。
と僕は答えた。
営業がサーバーって、しかもLinuxってUNIXでしょう。サーバー作ったことある?
皆んなは文系の僕がLinuxなんて絶対にできないと思っているらしい・・・
どのくらいLinuxやサーバーについて勉強してるんですか?
とUNIXに詳しい岡本さんが、プログラム研修担当の中島さんに聞いているのが聞こえた。
う〜ん・・・そうですね。Linuxの本を買ってきてインストールしていたみたいですけど、まだ一度も成功していないようです。
中島さんは小さな声でコソコソと答えた。
いつも叱咤しながらも応援もしてくれる山田さんの口から発せられた言葉だった。初めて山田さんから否定されたような気がした。僕のことを心配しての助言だったのにもかかわらず。
僕はみんなから応援してもらえるものだと思っていた。
その後はみんなそれぞれの話をしている。僕の話なんてなかったかのように・・・
それからしばらくして、会計の3,500円を支払い僕は席を立った。もうこれ以上、何を話してもムダだと思った。みんなはどうやら二次会に行くらしい。
みんなと逆方向に向かうと背中から「二次会行かないの〜?」という声が聞こえた。
僕は答える気分にもなれず、聞こえないふりをした。
そうすると、「きっと、一人で考えたいことがあるんだよ」と。それに同調する声もあり、みんなは二次会に向かったようだ・・・
正直に言うと忘年会を行った年末から3ヵ月でエンジニアになれたわけではない。
どのようにしてエンジニアの道に辿り着いたのか、それを語るには時を2年ほど遡らなければならない。
1998年に入り、取引先から「UNIXからLinuxに載せ替えできないか検討している。対応できるか?」という依頼を受けた。
すぐに会社に戻り、UNIXやLinuxのことを知っていそうな人に聞いて回ると、唯一知っていたのがプロバイダー事業部の秋山さんだった。そこで分かったのがLinuxはフリーで使えるUNIXであること。UNIX自体を理解していなかった僕の頭の中は???が飛んでいた。
それを見かね、ため息まじりに秋山さんはこう説明してくれた。
ダイヤルアップ(インターネット接続)やメールの送受信設定も自分でしないような奴に説明しても分からんと思うけど、要するにホームページ(※Webページと言いましょう)見たりメールのやり取りしてるだろう。そういうのをUNIXでサーバー立ててサービスしてんだよ。
入社した時にPCの設定を全部秋山さんに設定をしてもらったから嫌味な言われ方をしたが、説明を聞くまではメールはパソコン同士でやり取りしているものだと思っていた。
このマシンだけで200万。これにSolarisインストールしてプロバイダー会員の認証に使ってんだけど、Linuxはパソコンにインストールできて無料で使えるっていうから凄いよな。
会社のサーバールームには電源が入っているものだけで8台のサーバーがあった。
とその場でつぶやいた。
Linuxに興味を持った最大の理由はここではない。次のことを知るまでは・・・
また別の日、真っ黒なディスプレイに映し出される文字を見ながらプロバイダー会員と電話で話す秋山さんを観察していた。
メールが送信エラーになる原因を突き止め会員のサポートをしていたのだ。
と聞くと、ちらっと僕を見てこう答えた。
僕はドキッとした。やましいメールのやり取りをしていたからではない。映画で見たワンシーンのようなことが、その時、自分の目の前のモニターで繰り広げられたからだ。
僕はあの時に宣言したように、2000年4月からサーバーエンジニアとなり、4ヶ月後のお盆明けからは旧システムから僕が作った新システムが稼動し始めた。
それが評価され、翌年には月収45万円。年収は600万円を超える収入を得ることができるようになっていた。
営業職だった頃の2倍とまではいかないが、当時28歳の平均年収に比べると多い方ではないだろうか。なにより、営業職の頃のように数字に追われ上司から追及されたり、いやな顧客に頭を下げることもない。
毎日ラッシュの時間に満員電車にゆられ通勤していたのは遠い昔。キャリアーアップを目指し転職もした。
このエピソードでも登場してもらった先輩の中島さんと共著というかたちで翔泳社からOpenVZ徹底入門という本を出版する機会にも恵まれた。
すると・・・
驚いたことに、あのとき居酒屋で一緒に酒を飲んでいた昔の仲間たちから次々に連絡が入った。
今では独立もし、好きな場所で、好きな仕事を、好きな仲間とすることができる。